太地NAVI in Jimdo

風光明媚な太地町の非公式観光情報サイトです。
古来より捕鯨で栄え、現在では捕鯨文化を受け継ぎつつ鯨と生きる町、太地町の観光を応援しています。
他にも太地町を理解するための様々な情報を掲載していく予定です。

太地町の森浦湾方面から本浦方向を望む

太地町の地区の名前について

ここでは、太地町の地区の名前についてまとめています。
観光で立ち寄る程度なら、覚える必要もないかもしれませんが、こういった地名を知っておくと、より深く太地という場所を理解する手がかりになると思います。

よろしければご一読下さい。

森浦(もりうら)

元々は太地の隣にあった森浦村という地名でしたが1883年3月に太地町と合併し、森浦地区になりました。
元々はかなり深い部分まで入江になっていて、人の住める部分はほぼありませんでしたが、中央を流れる与根子川や周囲の山谷から流出した土砂によって、自然に造成されました。

本浦(もとうら)

森浦と常渡の間にある地区です。
元々は森浦に住む人達の祖先が本浦から常渡のあたりに住んでいて、漁撈生活を営んでいたそうです。

後に農耕をするために森浦に移り、そのため元浦と呼ばれたのが始まりのようです。

常渡(じょうと)

太地の中では新しい地区で、暖海に続いて1966年~1968年の埋め立てによって造成されました。

この地区は、当時の町長である故庄司五郎氏が「太地は、日本の捕鯨発祥の地として、その歴史と伝統をまもらなければ祖先に申し訳がない。これが私の使命である」という信念のもとに博物館を作り、一大観光地にするべく計画されました。

暖海(あたみ)

元々は水ノ浦湾の一部で、向島(町役場の裏手にある、いわゆる「満腹山」のこと)とつながる辺りのこと。
いさなの宿白鯨から南の辺りです。

1961年~1966年に行われた埋立工事で造成された住宅地で、「暖海」という地名は一般からの応募の中から選ばれて決められました。

水之浦(みずのうら)

元々は水之浦湾という、向島を挟んで太地湾と向かい合う場所にあった入江があった場所でした。

太地湾は平穏時はとても理想的な漁港でしたが、いったん時化て海が荒れると両方の湾から大波が打ち寄せて激流が起こり、漁船の係留すら難しい状態になるため、1925年に防波堤を作り水之浦湾と太地湾を分離させましたが、最終的に暖海とともに埋め立てられ住宅難を解決する手立てとなりました。

寄子路(よろこじ)

愛宕山の中腹から一望できる町並みが、寄子路の町並みです。

名前の由来は不明ですが、一説には燈明崎に流れ着いた吉備真備の一族の中に与呂子右衛門という人がいて、その方が拓いて住んだ場所だともいわれています。

新屋敷(しんやしき)

東明寺の前の一帯を新屋敷といいます。

その昔、現在の東明寺がある場所に寄子城(または頼子城、もしくは泰地城とも)という城があったそうです。

小東(こひがし)

現在、郵便局のある場所のあたりが小東と呼ばれる地区です。

その昔、角右衛門屋敷の跡があったそうです。

大東(おおひがし)

和田の岩門がある辺りが大東と呼ばれています。

平見(ひらみ)

太地湾の横の坂を登っていったあたりを平見といいます。

その昔は捕鯨のための山見がある場所で、やがて灯明や灯台が建ち、熊野灘を行き交う船の目印にされるようになりました。

夏山(なっさ)

森浦を挟んで常渡の反対側に位置し、現在の那智勝浦町の中にある、太地町の飛び地。

昔の地名は「難塞」と書き、この地名は太地の歴史に古くから登場し、1213年和田義秀が戦に敗れてこの地に流れ着いた場所です。
この和田義秀こそが、太地鯨方の元祖だと伝えられています。

寄水と東新

太地の方の話を聞いていると、時折「寄水(きすい)」と「東新(とうしん)」という名前が出てきます。

実はこれも地名で、「寄水」は寄子路と水ノ浦、「東新」は大東と小東と新屋敷とを合わせた一帯を指すようです。