太地NAVI in Jimdo

風光明媚な太地町の非公式観光情報サイトです。
古来より捕鯨で栄え、現在では捕鯨文化を受け継ぎつつ鯨と生きる町、太地町の観光を応援しています。
他にも太地町を理解するための様々な情報を掲載していく予定です。

太地町の森浦湾方面から本浦方向を望む

寺社仏閣について(寄子路地区編)

ここでは、寄子路地区にある神社や寺院についてまとめています。

太地町はかなり昔からある町ですから、その規模に反して神社の数が多く、また太地町の歴史や古式捕鯨を語る上で重要な寺院もありますので、それらを巡る旅というのも興味深いかもしれません。

なお、中にはわかりにくい場所もございますので、その場合は町の人に訪ねてみてください。
太地の人は皆親切ですから、丁寧に質問すれば、きっと教えてくれると思います。

飛鳥神社

飛鳥神社は、漁協の目の前にある神社で、古くから太地町の中心にあった神社ともいえます。

そのせいもあり、この神社に関する町史の記述は、合祀されている神社の分も含めると15ページに及びます(太地鯨方の菩提寺でもある順心寺でさえ6ページ程度ですから、その重要さがわかるでしょう)。

 

飛鳥神社は太地の氏神で、元々は寛永元年(1624)に新宮熊野地の阿須賀神社から勧請されたものです。

町史によると以前は別の氏神が祀られていたらしいとのこと。古くからある太地の集落には古くからある神社もあり、その可能性は大きいでしょう。

前田秋皎氏の「太地記行」の中には、「起源房州大蔵院のワダツミの神(海の神)を祭神をして伝えていたが、年暦の久しきに頽廃し、明応年間阿須賀神(三神)を勧請したもの。(太地風聞記)と称せられている」とあり、房州というと和田氏祖先である朝比奈三郎義秀が領有していた土地で、恐らくは義秀が最も崇敬していた大蔵院のご神体を勧請したものが存在した可能性が記されています。

 

祭神は事解男命(ことさかおのみのみこと)。

阿須賀神社は新宮の速玉神社の摂社として古来から有名な神社で、全国各地の飛鳥神社は、いずれも阿須賀神社から勧請され、分神として祀られたものといわれています。

棟札には「寛永元年子八月太地諸衆等時之庄屋和田金右衛門」と記されており、由緒記にも同様の記載があるようで、社殿の荒廃を機に、当時の庄屋であった和田金右衛門が、昔の飛鳥神社の縁喜にちなんで祭神事解男命すを阿須賀神社勧請して再興したものとも考えられます。

  

飛鳥神社といえば、太地町でも大きなお祭りである例大祭の宵宮に用いられる樽神輿が有名かもしれません。

宵宮というのは、昔の祭りになぞらえたものでその日の夜中に神主が祭神に祝詞をあげて神社に御降神いただき祭が始まりますが、祭神が御降神するまでに様々なご進物やお神酒を捧げて待つのが宵宮と呼ばれる儀式です。

一般的な神輿は神殿風のものですが、飛鳥神社の樽神輿はお神酒を入れた大樽や小樽を担ぐ樽神輿というもので、他にはあまり見られないものです。

この樽神輿の由来には二つの説があり、一つは太地角右衛門頼盛が房州朝夷の祭より取り入れたという説と、和田金右衛門が阿須賀神社から勧請する途中、三輪崎に差し掛かった頃に大雨がふり、近くの酒屋で手に入れた酒樽にご神体を安置して、空が晴れることを願いつつ帰ったことが由来だという説があります。


※ボリュームがありすぎるので、続きは後ほど……。

愛宕山神社

太地浦の裏手にある愛宕山を登ったところにある神社で、「愛宕さま」と呼ばれることもあります。

他の神社に比べると、若干足を運びにくい場所ですが、同じく山の上にある向島の弁天さまと比較すると、登り口は整備されており、町の人に場所を聞いてもほぼ誰もが教えてくれるというあたり、人々の生活の中で占める重要さは高いのではないかと思います。


祭神は軻遇突智神(かぐつちのかみ)で、飛鳥神社に合祀されている秋葉神社の祭神と同じ火伏の神です。

町内で火災があると、その前兆としてこの神社に火柱が立って予告してくれるといわれています。

 

本山は京都の愛宕神社で、例祭は一月二十四日ですが、以前はこの愛宕神社でも露店がでて賑わったといいます。

その当時は「愛宕様一文、口九文」という諺があったようで意味は不明ですが、恐らくは十文の銭の内、一文は愛宕様に参拝して使い、九文は露店で買い食いをするという意味かも知れません。

恵比寿神社

太地町内で一番重要な神社が飛鳥神社だとすれば、一番太地町っぽい神社というなら鯨骨の鳥居で知られる恵比寿神社でしょう。

 

祭神は事代主命(ことしろぬしのみこと)で、大国主命(おおくにぬしのみこと)の子。

町史によると一般には兵庫県西宮の祭神で、海上、漁業、商業などの守護神であると書かれています。

七福神の一柱でもあり、福の神ともいわれています。

 

境内にはしめ縄のされた奇妙な形の石がありますが、これは「男根神」といわれ原始信仰のなごりでこの神社の古さを物語っています。

 

井原西鶴の「日本永代蔵」にも「えびすさま」として記されているこの神社は、それによると今の浜地あたりまでは松林になっていたようです。

 

鯨骨の鳥居ですが、現在はマッコウクジラの顎の骨になっていますが、それ以前にはセミクジラの顎の骨が使われていたと言われています。

対潮山 順心寺

順心寺は和田一族の菩提寺で、臨済宗妙心寺派のお寺です。

もともと順心寺は朝比奈三郎義秀が隠遁した夏山にあったが、その後幾つか場所を移して今の場所に堂宇を建て「対潮山順心寺」となったと記されています。

明治五年(1872年)三月に火災で堂宇だけでなく保管物一切も消失(乞食の焚き火の不始末が原因とされていますが、当時は廃仏毀釈が盛んに行われていた時代でもあるため、実際はどうであったかは……。なおこの二年後に東明寺が消失している……)。


火災後、太地覚悟が仮の本堂を建立したが、覚悟の捕鯨事業が衰退していき本堂の再建ができず放置されていたが、檀家一同もそのままにしておくわけにも行かず、建築資金を工面して、大正三年十月に完成して現在に至ります。


境内には和田氏一族の墓があり、そこに隣接して太地氏の墓があります。

以前が混在していましたが、後に整理されたそうです。