太地NAVI in Jimdo

風光明媚な太地町の非公式観光情報サイトです。
古来より捕鯨で栄え、現在では捕鯨文化を受け継ぎつつ鯨と生きる町、太地町の観光を応援しています。
他にも太地町を理解するための様々な情報を掲載していく予定です。

太地町の森浦湾方面から本浦方向を望む

太地町の伝統や文化について

昔の太地の様子

その昔、紀伊半島南部、とりわけ沿岸地域では、山と海に挟まれた小さな平野にしがみつくように人々は暮らしていました。

人々の交流や物流はほぼ海路で成り立ち、新宮や富田(白浜)にあった廻船が江戸や大阪とをつなぎ、地域の狭い範囲を「いさば船」が結ぶことで、生活に必要なのものが運ばれていたようです。

 

暖かい気候と、黒潮が運んでくる豊かな恵みによって、人々は生きてきましたが、その豊かな海も時には荒れ、甚大な被害をもたらしました。

地震や津波の被害も多かった場所で、しかも当時の集落は木造で燃えやすかったこともあり、集落全体に及ぶような大火も時々起きました。

 

太地は海沿いの漁村でしたが、山手を少し登ると平たい場所もあり、そこを開墾して小さな畑をつくり、畑でとれた芋とひとにぎりの米や麦を鍋に入れ番茶で煮た「うけじゃ」という茶粥のようなもので、不漁の折は飢えをしのいだそうです。


黒潮は豊かな恵みを与えてくれると同時に、日本沿岸とその外側の大海原を分ける壁として立ちふさがっていました。

当時は鎖国政策のために造船技術が発達せず、黒潮を越えて外側に渡るような航海はできませんでした。

それが裏目に出て、欧米諸国の捕鯨船の存在に気づくのが遅れ、後手の対応になってしまいました。

例えば1788年には、串本大島湾内にて、アメリカの船が11日間停泊し、発砲や略奪を行ったという記録があり、それがきっかけで紀州では警戒態勢が敷かれるようになりましたが、水平線の彼方にいる彼らを見つけることは難しく、沖に出た鯨舟がかろうじて欧米の捕鯨船に遭遇した程度だそうです(欧米の船乗りは、日本の鯨舟や道具を見て笑って帰ったそうです)。

今も残る捕鯨文化の気配

捕鯨文化をより積極的に保存している太地町では、古式捕鯨で栄えた頃の史跡が幾つかあり、それをたどることで当時の様子がわかる。

その代表的なものがくじらの博物館で、本館の三階には当時実際に使われてた道具が展示されているほか、太地湾に浮かべられた船の上で踊られたであろう鯨踊り(綾踊り)の映像なども公開されている。

ここでいう鯨踊りとは、綾踊りや砧踊りとも呼ばれており、主に鯨を追うところを表現しています。なお、砧とは、鯨を追うために船縁を叩いて音を出すことに使われるもので、それは現在の追い込み漁にも間接的に受け継がれています。

鯨踊りや鯨太鼓は、太地町で行われる「太地浦勇魚祭(8月)」や「太地浦くじら祭(11月)」に実際に演じているところを見ることができますが、共に屋外で行われるため、天候によっては中止される可能性があります。
 

また、太地浦勇魚祭りでは、古式捕鯨を再現したものも上演されます。

大きな鯨の模型と、それを追う二艘の勢子船が、鯨を湾に追い込み、鯨の鼻を切るところまでを実際に行われた場所で再現しますので、とてもわかり易いです。

南紀より世界へ広がった移民と持ち帰られた文化

大背美流れで、太地鯨方は衰退しましたが、それがきっかけとなって広まったものがあります。

それは、南紀から海外に渡った移民たちです。
「海を越える太地」という太地町歴史資料室特別展の冊子によると、移民の先はターミナル島(アメリカ・カリフォルニア州)・スティーブストン(カナダ・ブリティッシュコロンビア州)・ブルーム市(オーストラリア・西オーストラリア州)で、そういった移民先から町内に様々なものがもたらされ、その1つが町内によく見られるペンキ塗りの洋風建築です。

※上記移民先の他に、水曜どうでしょう「オーストラリア縦断3700キロ 第四夜」でアラフラ海がネタになっていましたが、そのアラフラ海は紀州南部の男たちが命がけで真珠を採取した場所で、その様子は「町報海外号(海外に住む太地町民向けに書かれた町報)」で報じられました。