太地NAVI in Jimdo

風光明媚な太地町の非公式観光情報サイトです。
古来より捕鯨で栄え、現在では捕鯨文化を受け継ぎつつ鯨と生きる町、太地町の観光を応援しています。
他にも太地町を理解するための様々な情報を掲載していく予定です。

太地町の森浦湾方面から本浦方向を望む

太地町とはどんなところか

海と山に囲まれた小さな町

太地町は、熊野灘に面した小さな町で、その多くは住居に適しない三輪のような場所に囲まれた自然豊かな町です。

 
人口は、およそ3200人程度。

商業捕鯨がまだ盛んだった昭和50年頃(1975)には、当時の住民登録をみると世帯数1,406、人口4,638と、現在からするとかなり賑やかな町でしたが、1982年の商業捕鯨モラトリアム以降、徐々に人口が減少し、現在では都市部以外で問題になっている、高齢化と人口の減少に悩む町の1つになりつつあります。
 

主な産業は漁業と観光で、特に観光については昭和36年から43年までの埋立工事とともに計画され1969年に開館した、「太地町立くじらの博物館」を中心に大きな力を注いでいるようで、さらに捕鯨に関する展示の一環として、南極海の捕鯨で実際に活躍したキャッチャーボートを陸揚げして博物館付近に展示したりするなど、捕鯨文化や鯨類についてに特化した展示が他に類を見ないということもあり、町の中心的な存在にあるともいえます。

 

海と山に囲まれた小さな町ですが、その独自性の強さもあり、多くの町や村が合併で現在の那智勝浦町として合併される中で、その独自の立ち位置を貫き今に至ります。

古式捕鯨発祥の地

太地町は、古くから鯨を捕ることで栄えた場所でした。
1606年に大規模な突き捕り式捕鯨を始め、1675年には網掛け式突き捕り方という新しい技術を導入し、「古式捕鯨発祥の地」とも呼ばれています。
しかし、実際は16世紀には小規模ではありますが様々な場所で捕鯨が行われており、1606年に太地で大規模な捕鯨を始める際に、当時太地を治めていた和田忠兵衛頼元は、尾張師崎(知多半島の先端あたり)で鯨を獲っていた漁師の伝次を太地に招きました(当時、日本の各地で小規模な捕鯨がいくつも行われていました。小規模とはいえ当時の捕獲圧はかなり大きなもので、やがてそれらの場所では鯨がとれなくなり捕鯨は絶えてしまったようです)。
集団で多くの船を利用して、より大きな鯨を捕獲できるようになりました。
セミクジラやマッコウクジラを捕獲できるようになり、その鯨油や鯨骨の粉などを売ることで、太地は豊かになりました。
 

しかし、それでも獲れない種類の鯨があり、それをなんとか捕獲可能にするための方法が、網掛け式と呼ばれる方法でした(実際はそれほど確実な方法ではなく、信濃高遠の藩士、坂本天山は取り逃がした鯨や通鯨の多さをくやしがり、「もし自分が百目か五十目の砲をもっていたなら、これらの鯨はことごとく捕まえられるものを」といったそうです)。
網掛け式は捕獲可能な鯨種を多くしましたが、それでも依然として捕獲ができない鯨は存在したのです。

それらの技術によって、鯨を捕獲し、太地は栄えましたが、時代の流れによって徐々に捕鯨は難しくなり、1878年に起きた「大背美流れ」という海難事故で、古式捕鯨という組織的な捕鯨方法とともに太地の捕鯨は大きくし衰退しましたが、それでも太地の人たちは、捕鯨自体を諦めるなく、その思いはやがて極地での捕鯨へとつながっていきます。
 

今、世界的な視野で見れば、捕鯨産業は風前の灯になっていますが、それでも鯨を追う人たちがいて、それを食べる人がいて、それを愛でる人達がいる。
古式捕鯨の時代から、それが変わらないのが、太地という場所なのかもしれません。

鯨とともに生きる町

戦後、捕鯨が再開され、太地からも数多くの人たちが南極や北極へ捕鯨のために旅立ち、沿岸でも捕鯨船が捕鯨を再開するようになりました。
やがて町の規模も大きくなり、町全体の様子も大きく様変わりしていかざるを得ませんでした。

昔、鯨を追い込んだ湾も、増え続ける人口に対応して埋め立てられ、一部が港として整備され、鯨を追い込むことは、難しくなってしまいました。
 

しかし、そんな中で太地にあった古式捕鯨の痕跡が失われていくことを危惧する人がいました。
捕鯨産業が急速に成長する中、その影で失われていく物の価値の大きさを知っていたのでしょう。

その人は、太地に捕鯨の記憶を残すために動き始めました。

捕鯨文化を町の中心に据え、新たに捕鯨史を編纂し、鯨を養殖するという大きな夢を持ち、それらを観光という形に落としこむことで、捕鯨文化を観光資源に変えました。

それが今の太地という町の姿であり、将来の目的地なのではないかと思います。